ウオッカ
ウオッカ(Vodka、2004年4月4日 - )は日本の競走馬・繁殖牝馬である。牝馬として64年ぶりに東京優駿に勝利するなど牡馬を相手に活躍した。同世代のダイワスカーレットとは激しい争いを何度も繰り広げ、ともに牝馬ながら牡馬と互角以上に渡り合った。2008年・2009年のJRA賞年度代表馬。2011年選考のJRA顕彰馬。
経歴 デビュー前 2004年4月4日に、北海道静内町のカントリー牧場で生まれる。カントリー牧場の場長である西山貴司はウオッカが牧場にいたころの印象はあまり覚えていないとの事(何事もなく無事に過ごしていたため)。
2歳時に栗東トレーニングセンターの角居勝彦厩舎に入厩。その際、厩舎スタッフの間でも「シーザリオ級が入ってくる」ともっぱらの評判となっていたらしい。担当厩務員は中田陽之。なお中田は、テンコー・トレーニングセンター時代に母のタニノシスターと接している。中田の第一印象は「牝馬にしては大きいが、幅がなかったので良くなるには時間がかかる」だった。
入厩後の調教ではデルタブルース、ハットトリックのG1馬に食らいつく走りを見せており、想像以上の能力を見せている。この知らせを聞いた谷水はウオッカが将来の名馬である事を確信したという。これ程の能力ならば北海道の2歳重賞(函館2歳ステークス、札幌2歳ステークス)を総なめにする事も夢ではないとデビューに向けて移動するも、現地で熱発を発症したため一時テンコートレーニングセンターへ放牧に出される事になった。
クラシック登録する際、角居は「桜花賞、オークスの2つですか?」と確認したところ、馬主の谷水雄三は「5つ全部だ」と言って、5冠全てのレースのクラシック登録を行っていた。
現役競走馬時代 2006年(2歳) 10月29日、京都競馬場の新馬戦にてデビュー。デビュー前から主戦は四位と決まっていたが、四位が天皇賞・秋での騎乗が決まっていたため、鮫島克也が騎乗した。スタート後すぐに先頭に立つと、直線で再び突き放して勝利を収めた。
2戦目の黄菊賞から四位洋文を鞍上に迎えた。レースはスタートで後手を踏み、2着に敗れた。
3戦目の阪神ジュベナイルフィリーズではスタート後先団に取りつき道中は馬群の中団からレースを進め直線で先に抜け出したアストンマーチャンを差し切り、GI制覇を収めた。この時の勝ちタイム1分33秒1は、レースレコードであると同時に2歳芝1600mの日本レコードであった。阪神ジュベナイルフィリーズの勝利を受け、この年のJRA賞では最優秀2歳牝馬を受賞した。
2007年(3歳) 2007年の緒戦にはエルフィンステークスが選択された。他馬より2キロ重い56kgの斤量を背負っての出走となったがレースでは直線に入ると馬なりで先頭に立ち、2着のニシノマナムスメに3馬身差の着差をつけて勝利した。続くチューリップ賞ではダイワスカーレットがウオッカとマッチレースを望むかのようにウオッカをひきつけたが、これをクビ差交わし優勝した。なお3着との着差は6馬身であり、2頭の力が突出していることを示す結果となった。桜花賞では前走の結果から瞬発力勝負では分が悪いと踏んだダイワスカーレットが早めに抜け出すという作戦をとり、これを捉えることができず2着に敗れた。
第74回東京優駿1着入線後、レースを台覧した皇太子に最敬礼する勝利騎手・四位洋文ウオッカには桜花賞に出走する以前から東京優駿に出走するプランが発表されていた。桜花賞で2着に敗れたことで断念するとの見方もあったが、(事実桜花賞後は「オークスで頑張ろう」と話し合っていた)谷水から判断を一任された調教師の角居勝彦は牝馬として1996年のビワハイジ以来11年ぶりの出走を決断した。この時の決断は谷水が「オークスかダービーか角居君が決めればいい」の発言に角居が「ならダービー行かせてもらっていいですか!!」と答え谷水が「よっしゃ!!ダービーいこ!!」の電話の会話で決まった。レースでは馬群の中団から直線で抜け出して優勝し、父仔2代(父娘での制覇は史上初)での東京優駿制覇を達成した。また、牝馬の東京優駿制覇は1937年のヒサトモ、1943年のクリフジに続き史上3頭目、戦後初の出来事であった(レース詳細は第74回東京優駿参照)。四位にとっても初の東京優駿制覇で64年ぶりの偉業に「もう騎手をやめてもいい」と語った。
その後、初めての古馬との対決となる第48回宝塚記念へ出走。3歳牝馬が宝塚記念に出走するのは1996年のヒシナタリー以来11年ぶりのことであった。しかし、レースでは狙い通りの位置取りを取ることができずに、折り合いを欠いてしまい8着とデビュー以来初の大敗を喫してしまう。
同年秋の凱旋門賞への出走を目指し、ステップレースとしてヴェルメイユ賞から凱旋門賞というローテーションが考えられていた。しかし、8月7日に右後肢の蹄球炎を発症し、馬主サイドとの協議の結果、凱旋門賞出走を断念した。なお蹄球炎は4日間馬房内で治療に専念して回復したものの、この4日間の療養で調教ができなかったことで万全の状態でレースに挑めなくなったことが出走断念の理由となった。
その後8月26日には坂路入りを再開して調教が行われ、秋はトライアル競走を使わず直接第12回秋華賞に向かうことになった。レースでは後方に位置し3コーナーで外から進出していくものの、最後はダイワスカーレットだけでなくレインダンスも交わすことができず3着に敗れた。
次走には第32回エリザベス女王杯が選ばれた。ダイワスカーレットとの決着が期待されたが、レース当日の朝、右関節跛行の故障が発生したためレースへの出走を取り消した。実は早朝に谷水の下に電話がかかっておりこの時点で谷水はウオッカに何かがあったと察知したという。しかし症状は軽症だったため、第27回ジャパンカップに出走。迎えたレースでは2番人気に支持され、道中最後尾の位置から最後の直線で猛追するも最後失速し4着だった。
第52回有馬記念?ファン投票では、1位となる10万544票を獲得した。これは3歳牝馬(旧4歳牝馬を含む)としては初のファン投票1位であった。レースでは折り合いに苦労し、第3コーナーで早めに仕掛けたが早々と失速。11着と大敗、デビュー以来初の2桁着順となってしまう。また、同レースで同じ3歳牝馬のダイワスカーレットは2着に粘り、同馬との直接対決では3戦連続で先着を許し、JRA賞最優秀3歳牝馬の座も奪われてしまった。しかし、牝馬による64年ぶりの東京優駿制覇を選考理由としてJRA賞特別賞、関西競馬記者クラブ賞の特別賞を受賞した。
2008年(4歳)
第3回ヴィクトリアマイル京都記念から始動。同世代のアドマイヤオーラが1番人気、ウオッカが2番人気に支持される均衡した評価の中レースが始まる。レースでは好スタートを決めるものの、直後にトウカイトリックに馬体をぶつけられた結果、外側によれて馬群からはやや置いて行かれた形となる。その後、向こう正面ではまたも折り合いを欠き、4角地点で最後方から3頭目の位置から伸びあぐね、最後の最後で鋭い末脚を繰り出すも、6着に敗れた。
次走はドバイデューティーフリーを使う。ドバイで一番結果が出ている日本人騎手ということで武豊を鞍上に迎え挑戦したレースでは、積極的に前から進めるが4着。なお、レースは有力どころの牡馬勢(アドマイヤオーラやリテラト、クレカドールなど)が大敗し大荒れとなった。レース後は短期放牧に出され、帰厩後、ヴィクトリアマイルに出走。単勝2.1倍の1番人気に支持されたが、レースでは伸びを欠き、エイジアンウインズを捕らえきれず2着に敗れた。
第58回安田記念中2週で第58回安田記念へと向かった。なお、東京優駿優勝馬の安田記念出走は1989年のサクラチヨノオー以来であり、きわめて異例であった。前走まで騎乗していた武豊が安田記念でスズカフェニックスへの騎乗が決まっていたことから、新たに乗り替わった岩田康誠を背に、レースでは3枠5番という好枠から好スタートを決め先行すると最後の直線、残り1ハロンから一気に抜け出し2着のアルマダに3馬身1/2の差をつけてゴール。東京優駿以来約1年ぶりの勝利でGI及びJpnI競走通算3勝目を飾り、復活をアピールした。グレード制を導入した1984年以降、牝馬による安田記念制覇は1994年のノースフライト以来14年ぶり3頭目であり、東京優駿に優勝した馬がその後に2000m未満のGIまたはJpnI競走に優勝したのは史上初であった。また2着につけた3馬身1/2の差はGI格付けされた84年以降の最大着差である。
第49回宝塚記念?ファン投票では前年の有馬記念に続き1位となる7万5594票を獲得したが、宝塚記念には向かわず、栗東で休養することになった。休養中には、翌年も現役を続行し日本国外へ遠征するプランがあることがオーナーサイドより発表された。
秋初戦は毎日王冠に出走。唯一のGI馬という事もあり、圧倒的な1番人気に支持された。スタート直後に馬なりでハナを切り、そのまま最後の直線まで先頭に立ち、逃げ切りを図ったものの、ゴール前でスーパーホーネットに差され、2着に敗れた。
11月2日、天皇賞(秋)に出走。ライバル・ダイワスカーレットは単騎で逃げ、ウオッカはディープスカイをマークする形でレースを進め、直線に入り残り300メートルからディープスカイとともにダイワスカーレットに並びかける。ゴール前は2頭並んでの叩き合いとなり、一時は先頭に立つも再びダイワスカーレットが差し返し2頭並んでゴールイン。15分に及ぶ写真判定の末、2cmという僅差で勝利した。また、勝ちタイムは1分57秒2とレコード決着となった(レース詳細は第138回天皇賞を参照)。東京優駿を制した牝馬が天皇賞を制したのはヒサトモ(第6回東京優駿、第3回帝室御賞典)以来である。また、牝馬による牡馬混合GI3勝目となりこれも過去最多勝利数となった(その後、5勝にまで記録を伸ばす)。
天皇賞後はジャパンカップへ出走し、鞍上は天皇賞で手綱を取った武豊がメイショウサムソンに騎乗予定であったため岩田康誠に乗り替わった。最終的に2番人気に支持されたが、まれに見るスローペースに折り合いを欠き、最後の直線で内から伸びてくるものの、スクリーンヒーローの3着に敗れた。
第53回有馬記念のファン投票で136619票を獲得し2年連続で1位になったが、同競走を回避した。
2008年度のJRA賞で、年度代表馬と最優秀4歳以上牝馬に選出された。牝馬の年度代表馬選出は1997年のエアグルーヴ以来11年ぶりであった。
2009年(5歳) 2009年は再びドバイデューティーフリーを目標にドバイへ遠征。前哨戦としてジェベルハッタに出走したが、終始前を塞がれ結果はバリウスの5着だった。そして迎えたドバイデューティフリーに2年連続で出走。週末のレースまで雨が続いたことから重たい馬場でのレースとなった。レースでは、好スタートから2番手を追走したが、ゴール前で失速。逃げ切ったグラディアトラスから大きく離され7着に終わった。
第4回ヴィクトリアマイル帰国後は5月17日のヴィクトリアマイルに直行。1番人気に支持され、好スタートから中団の6番手くらいに抑えたが、最終直線で馬場の内側を通り抜けて先頭に立つと後続を突き放し、2着のブラボーデイジーにJRA古馬マイルGI史上最大着差となる7馬身の差をつけた。タイムもヴィクトリアマイルのレースレコードでの勝利となった。この勝利で2歳からこの年まで4年連続GI級勝利を挙げ、ホクトベガが有していた、牝馬による生涯獲得賞金の記録を12年ぶりに更新することとなった。また、ヴィクトリアマイルの1番人気での勝利は初となった。この圧勝のレースぶりに武豊は「牝馬という枠を超えている。この馬の背中は渡したくない。」とコメントしている。
続いて、6月7日の安田記念に出走し前走に引き続き1番人気に支持された。好スタートから道中は中団を進むも、直線で前方を他馬に塞がれ、スーパーホーネットとサイトウィナーに接触しながらも、残り100メートル付近でようやく進路が開く厳しいレースとなったが、そこからディープスカイを差し切って優勝した。レース後、2着に敗れたディープスカイ鞍上の四位は「向こうは残り100mくらいしか仕掛けていない。まともだったら5、6馬身は離されていたかもしれない」と語った。安田記念の1番人気での優勝は1998年のタイキシャトル以来11年ぶりであった。このレースの勝利によってウオッカは牝馬として初めて獲得賞金が10億円に到達するとともに、牝馬では最多となるGI級競走6勝目となった。また、1993年のヤマニンゼファー以来3頭目、そして牝馬としては1952年及び1953年に連覇したスウヰイスー以来の安田記念連覇という記録も達成した。 この絶体絶命のピンチを撥ね退けての劇的な勝利にオーナーである谷水は「ウオッカは天からの授かりもの」とコメントした。
第50回宝塚記念のファン投票で139507票を獲得し1位となったが、同競走を回避して放牧されることとなった。
休養明けの秋初戦は前年同様毎日王冠から始動。単勝1.3倍の1番人気に推される。レースでは好スタートから自然にハナを切り、直線に向いても脚色は衰えずそのまま逃げ切るかと思われたが、残り100m付近でカンパニーに差され2着となった。なお、このレース2着での賞金加算によりJRA通算獲得賞金が10億1746万円となり、JRAでの獲得賞金でも10億円を突破することとなった。
第140回天皇賞(秋)第140回天皇賞(秋)、ここでもウオッカは2.1倍の人気を集める。レースは、好スタートも前哨戦と違って中団やや後方から追走して直線では内をついたが、先に抜けたカンパニーとの差を詰められず、2番手に粘っていたスクリーンヒーローを一度は差すも、ゴール前で再び差し返され3着に敗れた。天皇賞での敗戦後角居の「これ以上負ける姿を見せるのはかわいそう」の発言が引退ととらえられた為、引退の噂が流れた。
11月29日の第29回ジャパンカップに出走、このレースでは厩舎側が「ウオッカに掛かるイメージを持っていない騎手」を理由に、鞍上をクリストフ・ルメールに交代させた。近走の不振に加えて距離延長や年齢的な衰えの不安要素を抱えていたが、ここでも応援馬券的な意味合いもあってか3.6倍ながら1番人気に支持された。レースは武豊のリーチザクラウンが引っ張る形で進み、ウオッカは4,5番手の好位を追走。最終直線に入り早め先頭で押し切ろうとするも、後方からオウケンブルースリが追い込み2頭並ぶ形でゴールに入線。写真判定の結果、2cmの差でウオッカが1着となり、GI7勝目を挙げた。ウオッカはシンボリルドルフ、テイエムオペラオー、ディープインパクトに並ぶJRA・GI7勝目という記録を達成した。また、牝馬のJRA・GI7勝および日本生産、調教の牝馬としての同レース勝利は史上初となった(牝馬の優勝としては1989年のホーリックス以来20年振り4頭目[8])。また、この勝利で東京競馬場芝コースで行われる古馬GI全てを制したことになり、これはJRA史上初である。
しかし、ジャパンカップの終了後、競走中に鼻出血を発症していたことが発表された。この為、日本中央競馬会競馬番組一般事項第2章のその11「痼疾馬の出走制限」の規定により、ジャパンカップが施行された日から1ヶ月間出走できないため、12月27日の有馬記念への出走は不可能となった[9][10]。これによって引退を含めた今後の動向が注目されたが、12月8日に角居調教師から、2010年3月27日にアラブ首長国連邦のメイダン競馬場で開催されるドバイワールドカップ(GI、オールウェザー2000m)を引退レースとし、引退後はアイルランドで繁殖に入ることが発表された。12月10日に発表された有馬記念ファン投票の最終結果で1位となったが、3年連続1位は初である。
2010年1月に、2009年度のJRA賞最優秀4歳以上牝馬、年度代表馬に選出された。牝馬の年度代表馬2年連続選出は史上初であり、通算ではシンザン、ホウヨウボーイ、シンボリルドルフ、シンボリクリスエス、ディープインパクトに続く史上6頭目である。また、4年連続JRA賞受賞はメジロドーベル以来史上2頭目である。
2010年(6歳) 1月に最終目標とするドバイワールドカップの他、2年続けて出走したドバイデューティーフリーおよびドバイシーマクラシックへの予備登録を行い、ステップレースとして3月4日のマクトゥームチャレンジラウンド3に引き続きルメールを騎手で出走したが、好位からレースを進めたものの伸びを欠いて8着に終わった。そのレースで2度目の鼻出血を発症したことが判明したため、調教師の角居勝彦とオーナーの谷水雄三が会談を行い、招待を受諾していたドバイワールドカップへの出走を取り止め、現役引退を決定。2010年3月18日、JRAよりウオッカの競走馬登録の抹消が発表された。ウオッカはドバイよりそのままアイルランドのギルタウンスタッドへ向かい、繁殖生活に入った。なお、数年間はアイルランドにとどまり、その産駒を外国産馬として日本で走らせる予定となっている。
引退後 2010年5月30日の第77回東京優駿開催日のJRAプレミアムレースである目黒記念に対し、ファン投票により「ウオッカメモリアル」の副名称が付与された。
2010年6月3日、繋養先のギルタウンスタッドより、3度目の種付けによってシーザスターズの仔を受胎したことが発表された。翌2011年5月2日(現地時間)に初仔となる牡馬を出産した。
2011年5月9日、平成23年度顕彰馬選定記者投票で186票中157票(得票率84.4%)を獲得し、規定の3/4を超えたため、JRA顕彰馬に選出された。
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